特有の平和遺産を「国際平和文化構築拠点」に!

中国の平和遺産をいかに発掘し、活かしていくか。紛争が止まない世界で、とりわけ現在の中日関係を考えていく上でそれが不可欠ではないか――。

このように問いかけると、中国「脅威」論が溢れている現在では、せせら笑いを誘うだけかもしれない。ただ、平和を願っているのなら、どのように平和を実現していくかについて、具体的なビジョンを持っておく必要がある。

中国にも日本にも、平和のための遺跡や施設はたくさんある。ただ、その多くは、戦争の実態を歴史に留め、教訓とするためのものだ。つまり、加害/被害、戦争の方に照準していて、平和をいかに生み出すのか、その道筋が示されているとは言い難い。戦争の悲惨ささえ忘れなければ、平和が訪れるというほど単純ではない。ましてや、平和を理念的に訴えるだけでは見向きもされないだろう。しかし、実際に平和を生み出した経験や施設があるとなれば別だ。中日関係はもちろん、世界情勢を考えれば、実際に平和や和解が生み出されたという経験は、大きな現在的意義を持つ。

山西省の太原市にある太原戦犯管理所跡地は、そのモデルとなる可能性を秘めている(写真1:白諦氏提供)。

同所では、日本敗戦後の1950年代前半に日本人戦犯が収容された。元は日本軍の施設で、侵略に抵抗した軍人や民間人を収監し、拷問などが行われていた。逆に日本人が収容されると、彼らは生まれてはじめて人権や人間性が尊重され、平和的かつ文化的な取り扱いを受けたと感じるようになったとなれば、どうだろうか。そこで戦犯たちは次第に罪を認めるようになり、中国側はその反省を受け入れることになる。ある種の“戦後和解”を生むための基礎的な環境がそこにあった。

戦犯たちは戦時中、中国軍の捕虜や農民らに充分な食事を与えることなく、怪我や病気の治療など考えもしなかった。拷問や強制労働はもちろん、殺害することも厭わなかった。だからこそ、逆に自身が囚われの身となると、報復に怯えた。ところが、太原戦犯管理所では、居室こそ手狭だったものの、十分な食事を提供され、病気や高齢の戦犯には治療や入院の措置が取られた。健康な者には毎日運動の時間も設けられ、強制労働や看守による暴行・暴言がないどころか、きわめて丁寧な扱いを受けた。“中共は非道だ”と教え込まれていたので、どういうことかと驚き、訝った。日とともに生活環境は改善され、収容後期には学習や文化活動まで行われた。人権が尊重される「もう一つの世界」を体験し、そこに温かさや安心感を覚えた。日本軍に象徴される日本社会が、天皇を頂点とする硬直した階級構造にあり、権力、命令、暴力、人権無視、競争、差別によって体系付けられていたことを痛感した。自ずと自分自身を見直すきっかけとなった。

戦後、日本人戦犯裁判は東京裁判をはじめ、8ヶ国9政府によって実施された。戦犯の人権をここまで尊重したのは新中国による戦犯裁判だけだったことは、各国の研究者が指摘している。また、どのBC級戦犯裁判でも大部分の戦犯が自身の戦争犯罪を否認したのに対して、新中国の裁判だけが全員が全面的に罪を認めた。それだけではない。裁判を終えて帰国した戦犯たちは1957年に平和団体を結成し、2000年代まで自身の加害体験を語り、平和な社会を生み出すための積極的な活動を続けた。反省が一過性のものでも、赦されるための駆け引きでもなかったことが分かる。裁判後の戦犯たちが組織的かつ継続的にこうした活動を続けた例は、他にはない。1980年代半ばには、元戦犯たちが戦犯管理所の職員たちを「再生の恩師」として日本に招き、戦争を防ぎ、平和な中日関係を生み出すための努力を共に続けた(写真2)。狭い範囲ではあるが、確実にモデルケースとなる“戦後和解”が生まれていた。

罪悪感を覚えることなく戦争犯罪に手を染めていた戦犯たちが、なぜここまで変わったのか。いくら人道主義的環境に置かれていたとはいえ、それだけでは実現しない。逆に、戦犯管理所の職員たちが強制力をもって一方的に働きかけ、政府が思想統制を行った結果ではないか、という見方も根強い。しかし、当時の一次史料や双方の当事者への聴き取り調査を通じた最新の研究成果では、そういった事実は見当たらない。むしろ、厳格な働きかけは反発を生むだけで逆効果だったことが確認されている。

一口に戦犯への人道主義的対応といっても、あれほどの被害を受けた人たちがそれを実行することは容易ではない。当初は、報復感情から過剰に厳格に振る舞う職員もいた。それが戦犯たちの更なる反発や挑発を生むという悪循環を前にして取られた措置もまた、中国特有のものだった。敗戦後も頑なに抵抗を続ける「敵」にいかに向きあうか模索するため、管理教育の担当者自身が学習や自己反省を重ねたのである。そこから、戦犯らの反抗や挑発に感情的に反応するのではなく、感情をコントロールすることで、穏やかに、理性的に向き合うアプローチを試行錯誤しつつ、実践した。それは、戦犯たちの眼には理解を越える「寛大さ」として映り、反抗を続ける自身の姿を問い直す機会となった。つまり、日本人戦犯に「過去」の問い直しを迫り、自己変革を導いていった管理教育とは、まず管理側の自己変革を通じて形成された平和的・文化的実践だった。侵略や戦争犯罪を裁くことは重要だが、それだけで平和が訪れるかどうかは歴史が示している。裁くだけでなく平和、和解へと転換していくには、双方が自己学習、自己変革を経て、相互作用を重ねていく必要があった。こうした平和創出は、1950年代の中国に特有のものだった。

こうはいっても、どうして戦犯が変化し和解に繋がったのか、やはり理解し難いところが残るだろう。かつてない平和創出のあり方は、それに相応しい方法で伝えていく必要がある。平和を生み出す文化とは何か、自己や社会を反省的に見つめ直すとはどういうことかを追体験できる実践的な中日交流プログラムを備える必要がある。それは、単なる「戦争遺跡」「平和遺産」にとどまらず、「国際平和文化構築のための拠点」となる。1950年代の建国期に実装していた平和を生み出す特有のアプローチが、現在の「人類運命共同体」の実践に繋がっていることを体感できるだろう。両国の市民や青年たちが、そこでまず平和と和解を体験することが、「過去」と「現在」そして「未来」を繋げてくれる。